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正法寺ってどんなとこ?

岩手県花巻市にある、真宗大谷派鶏頭山正法寺の概要や歴史についてご紹介いたします。

※ 国の重要文化財に指定されている同名の「曹洞宗・正法寺(奥州市)」とは異なります。

 

 

 

んしゅうおおたには けいとうざん しょうぼうじ

宗大谷派 鶏頭山 正法寺

  ◆ 宗 派  真宗大谷派

  ◆ 本 尊  阿弥陀如来

  ◆ 宗 祖  親鸞聖人

  ◆ 本 山  真宗本廟 (京都 東本願寺)

  ◆ 教 え  本願を信じ念仏申さば仏になる

  ◆ 開 創  1502年(文亀二年)8月

  ◆ 初 代  釋 正圓(小原 清八)

  ◆ 住 職  第二十世 釋 勇哲(小原 勇哲)

 

【住職紹介】

​◆ プロフィール

 小原 勇哲(おばら ゆうてつ)   1978年生まれ

​2001年に京都・大谷大学(文学部仏教学科)を卒業。

2001年~2018年まで医療・介護施設に勤務。介護福祉士、介護支援専門員の資格を取得。高齢者介護の現場の中で、老いや病の身を抱えながら生き尽くされた多くのお年寄りの姿に育てられ、僧侶として生きる覚悟が決まる。

2018年に退職し、第二十世として正法寺住職を継職。

◆ 住職からひとこと

目まぐるしく時間が流れる現代社会。

一度立ち止まってみませんか?

 

時代社会を「川の流れ」とするならば、お寺という場所は「湾処(わんど)」ではないでしょうか。魚や昆虫が川の流れから身を休め、命を育む住処(すみか)にしているように、日常に行き詰った時に人々が駆け込むことができ、ふと立ち止まることが許される場所。そして再び日常に戻っていく起点となる処(ところ)こそ、先人たちが大切に守って来られた「お寺」が持つ大きな役割なのでしょう。

どなたでも気軽にお立ち寄りください。

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現住職 第二十世
釋 勇哲 (小原 勇哲)
2018年10月就任

【正法寺の歴史】

◆ 草創期

 正法寺の歴史は、和賀多田薩摩守儀次の家臣であった小原清八が長い戦乱から人生に無常を感じ、発心得度して僧となったところから始まると伝えられています。 

 清八は明応年間(室町後期:1492年~1501年)にはるばる上京し、石山本願寺にて蓮如上人の御教化を受けて念仏者となり、上人没後に小山田村石鳩岡(現・花巻市東和町石鳩岡)へ帰り、一坊舎を建てたという記録があり、開創は文亀二年(1502年)八月二十五日と伝承されています。

 その後、慶長十七年(1612年)第四世・善教の時代に東本願寺・教如上人より御本尊と「正法寺」の寺号が授与され、正式に東本願寺の末寺となります。

◆ 八重畑へ移転

 開創から175年経った延宝五年(1677年)第九世・敬誓の時代に八重畑村(現・花巻市石鳥谷町八重畑)に移転し、さらに貞享四年(1687年)には『親鸞聖人御影』が授与されています。

(移転理由については明確な記録はないが、郷土史などいくつかの資料を基にすると小山田から八重畑に移住した者たちと八重畑の土地の有力者の寄進によると推測されている。『正法寺開創五百年記念誌』より)

 旧本堂は文久二年(1862年)第十五世・教瑞の時代に建立されました。

(この時に現在の場所へ移転したと伝えられている。)

◆ 本堂焼失

その本堂は、第十八世・教英の時代の昭和五十三年(1978年)年から大規模な改修工事を行い、翌五十四年(1979年)九月に完成して落慶法要が勤まりました。しかし、そのわずか八ヶ月後の昭和五十五年(1980年)五月六日、火災に遭遇して焼失してしまいました。

 仏具の大半を焼失しましたが、御本尊と親鸞聖人御影だけは住職・教英(当時)が燃え上がる本堂の中から抱え出し、かろうじて難を逃れました。また、火災発生直後に近隣より馳せ参じた門信徒の方々の奮闘、消防団の決死の消火活動によって隣接する庫裡(住居部分)への類焼は免れました。

(出火場所は本堂余間天井裏とみられ、発見が遅れたことにより全焼に至った​といわれている​。)

 火災後、教英は「御堂の管理者として何等手の施しようもなく、正法寺の伝統を汚し、門信徒の信仰の結晶たる文化財的御堂・仏具は勿論のこと、歴代の御影まで焼失しましたことの責任は、免れざる重大な過失であります(一部抜粋)」というお詫び状を全門徒に配り、火災の全責任を負い謝罪するところから復興に向けての動きを始めました。

 

◆ 本堂再建までのあゆみ

 本堂焼失後は類焼を免れた庫裡の広間を仮本堂とし、青森県弘前市正蓮寺様より須弥壇(ご本尊の台)と羅網(天蓋)の御寄贈を受けて、ご本尊と親鸞聖人御影を安置しました。そして火災から2ヶ月後には、各地区代表者、有識者、現役員からなる「正法寺本堂再建計画委員会」が設置され、再建計画の協議が順調に進むと思われました。

 しかし、この昭和五十五年(1980年)は、全国的に7月以降の低温・多雨等によって農作物への甚大な被害が発生し、正法寺においても御門徒の多くが水稲農家であったため大きな影響を受けることになったのです。そのような状況下で再建計画の中止や延期も検討されましたが、総代はじめ各役員のご尽力により門徒総会が開催され、正法寺門徒の総意によって本堂再建が決定しました。

​ 本堂焼失から7ヶ月後の十二月三十日に正法寺本堂新築工事起工式が行われ、1年経過した翌五十六年(1981年)五月二十四日には上棟式が執り行われました。そしてついに同年十月三十一日に本堂建築工事が完了し、遷仏式(仮本堂から本堂へご本尊をお迎えする儀式)が勤修されました。

 災禍に遭難して以来、1年5ヶ月の極めて短期間で門信徒が大切にする聞法道場の再建が果たされたことは、十八世住職・教英の復興にかける並々ならぬ決意と、責任役員をはじめとする総代・世話役、再建のために委嘱を受けた再建実行委員会の献身的な取り組みと、檀信徒皆様のご理解とご協力の賜でありました。このことは正法寺の歴史において特筆し、後世に伝えていかねばならないことであると思います。

​※ 「正法寺Photoギャラリー」を合わせてご覧下さい。

正法寺歴代住職

​正法寺 Photoギャラリー

​正法寺の歴史を写真で紹介します。

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