ビハーラ医療団講義集Ⅰ
『 骨導を歩む 』
( 2000年9月1日 初版第1刷発行 )
編集・発行/ ビハーラ医療団
発売/ 法蔵館
「墓」とは何か?
お墓を単に「死者供養の場」「お骨の納め場所」とばかりに捉えていませんか?お墓の意味を考える上で、まず「お骨」とは何かをおさえなければなりません。
では、お骨とは何でしょうか。お骨を通して、先立って生ききられた先人のあゆみ、息吹を聞くのです。その先人のあゆみが、私自身が「死ぬ身」を生きていることに気づかせ、そういう生を背負って豊かに生ききって・死にきっていくための「指標」になっているのではないでしょうか。
お骨とは何か、お墓とは何か・・・。あなたはなぜお墓参りに足を運ぶのですか?
ここでは宮城 顗という先生の言葉を紹介して問題提起とさせていただきます。
『骨道を歩む』より
【質問】
自分自身が死を受け容れていくためにはどうしたらいいでしょうか。全く素人なもので、教えていただきたいのですが。
【宮城】
このことを痛感させられてから未だにもがいております。だから、こうしたら死を乗り越えられますよとはいえないのです。ただそうなってみて初めていろんな人が見えてきました。(中略)
私はやはりどうしても「本」というところで生きておりますもので、本屋に行きました。そうするとすでに亡くなった人や未だ戦っている人、いろんな病気と戦っている人、あるいは看取られた人の書物が本当にこんなにたくさん出ていたかと思うほどたくさんありました。そういうものをずうっと読ませていただきまして、そしてその中でふと私の心に浮かんだのが「骨道」という言葉だったのです。(中略)
「法顕」という西暦三百年ぐらいに中国からインドに渡って経典をたくさん持ち帰った人。これはもう玄奘三蔵法師よりももっと早い三百年ほど前にインドに行っているわけですが。ですから大変な苦労をして行っておられるのです。その法顕の旅行記の中に「空に飛ぶ鳥なく、下大地に走る獣なし」。どこを見回しても、砂漠の所でしょうから、何も目印もない。ただわずかに日が昇り日が沈む。それを見て東西をはかる。そして「遥かに人骨を望みて行路を標するのみ」。こういう言葉がありまして、自分に先立ってその道を歩んだ人、そういう人がそこで死んでいっておる。その人骨を辿っていくと。人骨に導かれて「行路を標す」といっておるわけです。結局その自分に先立って同じ問題を抱え、同じ道を歩んだ人がその歩みの中で亡くなっていっておる。そういう歴史があるわけです。そういう人に出会うことにおいて、法顕は自らの歩みをまた歩み出していけたわけですけれども。そのことは何か私たちのそういう精神的な生活の中にあってもやはり常にあるのだと思います。
そういうこの私に先立ってこの問題に苦悩しながら歩んだ人。その同じ道を歩んだ人。そういう人のその歩み、その歩みの中でその生涯を生ききっていかれたその事実が私にこの自分の身の「死ぬ」という事実を、ある意味で覚悟させながら歩ませていくということです。結局「人に会う」ということでしか、私には今までございませんでした。その人が自らの歩みの中で確かめていかれた教えの言葉とか、そういうものがやはり私の胸に残ってきた。それが少なくとも今日までともかく歩ませてくれた力だと、そういうように思っております。
(『ビハーラ医療団講義集Ⅰ 骨道を歩む』法蔵館 37頁)